スポーツライター増島みどりのザ・スタジアム

2025年9月19日 (金)

「ファイナリスト」を自ら考え発信した高野進氏から34年、中島の「決勝の舞台に立って初めて見えた景色」とは

 34年前の東京世界陸上でこの種目7位に入った高野進氏以来のファイナリストとなった中島祐気ジョセフは、準決勝と同じく直線で粘った。もう力がどこにも残っていないゴール直前で7位を6位にあげる気持ちのこもったレースを見せて3レースを終えた。
 「状態は悪くなかったが、準決勝が終わって一仕事終えた、という感じで・・・予選からめいっぱいという訳じゃなかった。(3レース走ってみて)準決勝は一番緊張し、決勝は神聖な舞台で御互いリスペクトがあると思った」
 中島はいつも通り椅子に座って取材に対応した。椅子に座る姿はいつも通りでも、初の決勝で出す究極の底力については未知の部分が大きかったはずだ。それを示すように、予選を44秒44の日本新記録で突破すると、準決勝は44秒53、そして決勝は44秒62と0秒1づつ伸びなかったタイムが「疲労」そのものを表していたのだろう。
 中島が表現した「互いをリスペクトする」決勝の舞台を、日本の短距離陣に伝えたのが高野氏の大きなレガシーだ。「ファイナリスト」は、91年地元での世界陸上を前にした高野氏が自らメディアに発信し、定着させた言葉と当時の取材者として記憶する。陸上に限らないが、オリンピックをはじめビッグイベントには「メダリストとそれ以外」しか表現がなかった時代、高野氏が日本陸上界の目指すべき方向、立ち位置のようなものを「ファイナリスト」に込めた。
 高野氏は当時「決勝の舞台に立って初めて見える景色がある」と話していた。83年第1回のヘルシンキ、87年第2回のローマ世界陸上、84年ロサンゼルス、88年ソウルオリンピックと、ことごとく決勝進出の壁に阻まれたからこそファイナリストの意味を誰より身に染みて感じていた。そしてその先に立ちはだかる新たな「メダリスト」の壁の存在も。
 中島は決勝を終え、「夢だった決勝の舞台だったが、それよりも先に悔しいという感情が出て来て自分でも不思議だった。最高の戦いのなかで外国勢との差が明確になったし分析もできるはず」と言った(TBSフラッシュインタビュー)。中島の目と心に焼き付いた決勝の舞台で初めて見えた景色にメダルは映っていただろうか。


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増島みどり プロフィール

1961年生まれ、学習院大からスポーツ紙記者を経て97年、フリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。
98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」(文芸春秋)でミズノスポーツライター賞受賞、「GK論」(講談社)、「彼女たちの42・195キロ」(文芸春秋)、「100年目のオリンピアンたち」(角川書店)、「中田英寿 IN HIS TIME」(光文社)、「名波浩 夢の中まで左足」(ベースボールマガジン社)等著作も多数

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