スポーツライター増島みどりのザ・スタジアム

2024年8月11日 (日)

パリオリンピック男子マラソン完走71人中ただ1人自己新で6位 赤﨑を拓殖大で指導し九電工へ送り出した恩師・岡田正裕氏は「7位になれるぞ」と激励していた

 激しいアップダウンで五輪史上最難コースと言われたパリ五輪のマラソンの出走は81人で完走は71人、途中棄権した10人の中には、最初の難所、急こう配の坂で先頭から脱落した王者・キプチョゲ(ケニア)もいた。完走した71人中たった一人赤﨑暁だけが自己新記録を更新(パリ五輪公式記録による)した。
 「今までのマラソンで(パリが4レース目)一番楽しかった。超楽しく最高だった」と、爽やかな笑顔で超難関といわれたレースレースを振り返った。レース前のオンライン会見では、起伏に対応するために「坂ばかり走ってきた。その途中で何度も止まりたい、やめたいと思ったが、ここでしっかりやらなければオリンピックは戦えない、と乗り越えた」と、パリのコースよりも厳しい坂を走り込んだという3カ月間を振り返りながら明かしていた。

 起伏の激しい、地元熊本の阿蘇でも走り込んでいた様子を、拓大に勧誘し3年間指導し卒業時には九電工に送った恩師・岡田正裕氏(79)は九電工の綾部監督の練習、サポートを称賛した。そして赤﨑が「自信に満ちている」と見ていたという。岡田氏は今年3月に小森コーポレーションの顧問を退任、様々な実業団選手たちの練習や相談を受けており、赤﨑の6位入賞に「阿蘇での練習を見た時に、綾部くん(健二総監督)の練習は全てこなし足も強くなっていて、それ以上に強い自信がみなぎっているように見えたんです。だから、今の力なら7位になれるよ、と励ましたら6位ですか・・・いやぁ、1つ上げたなんてよく本当に頑張った」
 電話の向こうから岡田氏の弾んだ声が返ってきた。
 赤﨑は熊本出身で中学まではバレーボール部に所属、開新高校に進学して陸上を始めた。大学進学に岡田監督は地元から拓大に進学するランナーをスカウトした。面談で「真面目に陸上に打ち込めるか。そして駅伝、マラソンで頑張るか、の2つだけ聞きました。赤﨑は、きっぱりと、はい、と言いましたね。スター選手ではなかったが、真面目で人の話をちゃんと聞き、いつも伸びしろがある選手でした」岡田氏は感慨深げに言う。
 7位からひとつ順位をあげたので「帰国したら焼き鳥でもご馳走しようと思っています。いや、焼き鳥じゃいつも通りか、もうちょっとぜい沢な・・・」恩師は大きな声で笑った。
 日本の「マラソンの父」として日本人初の五輪出場(1912年ストックホルム)を果たした金栗四三さんも熊本出身で20年アントワープ、24年パリと3大会で五輪マラソンに出場。若いランナーのために箱根駅伝の創設に尽力した偉大な先人から100年経って完走できなかったパリに来てくれた後輩の背中を、金栗さんもレース中ずっと押していたに違いない。

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増島みどり プロフィール

1961年生まれ、学習院大からスポーツ紙記者を経て97年、フリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。
98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」(文芸春秋)でミズノスポーツライター賞受賞、「GK論」(講談社)、「彼女たちの42・195キロ」(文芸春秋)、「100年目のオリンピアンたち」(角川書店)、「中田英寿 IN HIS TIME」(光文社)、「名波浩 夢の中まで左足」(ベースボールマガジン社)等著作も多数

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