スポーツライター増島みどりのザ・スタジアム

2022年12月30日 (金)

カズがペレ氏の死去を追悼「サントスの後輩として誇りを感じた。サッカーで人々を幸せにし、豊かにしてくれた。Obrigado!(オブリガード=有難う)」

JFL鈴鹿ポイントゲッターズの元日本代表FW三浦知良(55)、カズが30日夜、クラブを通して、ブラジルで死去したペレ氏を追悼するコメントを発表した。コメントは以下。

 ペレが亡くなられたという知らせに接し、悲しみとともにいまはさまざまな思いが去来しています。
 ペレというサッカー選手は、誰もが憧れ、なりたいと思ったプレーヤーであり、しかし、決してなれるような存在でもなく、本当に唯一無二の特別な存在でした。ペレがいたからサッカーがある、サッカーをつくった世界一の男だということは、幼い頃からずっと思っていました。ワールドカップやサッカーはもちろん、スポーツそのものの象徴といってもいいその存在は、あまりにも偉大でした。
 サントスでのプレーは同時代ではなかったけれど、そののちに幾度なく映像で見ていましたし、ニューヨークコスモスに移籍してからのプレーは、ほぼ同時代で見た記憶があります。国立競技場で行われた試合も見に行くことは叶いませんでしたが、テレビで見てましたし、いまのように映像が自由に見られない時代でも、必死にその姿を追い、ペレの凄さを目に焼き付けていました。
 そんな僕がペレと初めて会って言葉を交わしたのは、1985年の暮れ、18歳のときでした。当時、僕はサントスのジュニオールに所属していて、タッササンパウロのジュニアの大会に出場することになっていました。そのプロチームのロッカールームにペレが姿を現したのです。ユースのコーチがペレに「彼は日本から来ているカズで、頑張っている」と紹介してくれました。40代のペレは、何かの撮影のために来ていて、撮影が終わりシャワーを浴びた直後で、なぜかまっぱだかだったんですが、サントスのユニフォームを着ているときに、サントスの黄金時代を築いたキング・ペレに励まされたのがものすごく嬉しかった。サントスの後輩として誇りを感じた瞬間でした。
 次にペレに会ったのは、イングランドで行われた1995年のアンブロ・カップのときでした。日本―スウェーデンのゲーム前に日本のロッカールームに「マイサン(俺の息子)はいるか」とやってきてくれたのです。当時の日本代表のフィジカルコーチのフラビオが「マイサンって誰だ」と訊いたら、「カズだ」と答えながら入ってきて、ハグしてくれました。僕のサントス時代の活躍も知っててくれて、少し言葉を交わしました。
 2012年のクラブW杯で来日したときには、「Number」の企画で対談し、一緒に表紙を飾るという栄誉を授かりました。初めてじっくりとサッカーのことを語り合うことができて、本当に光栄でした。謙虚で、温かみにあふれる人柄に触れられたのが嬉しかった。「我々のサントス」という言い方で、僕のことを尊重してくれたことも忘れられません。

 今回の悲報はどこかで覚悟していたところもあったのですが、ニュースが飛び込んできたときには、やはりなんとも表現できないぐらいの悲しみに襲われました。ペレがいるからサッカーをやっている、ペレがサントスにいたから自分も努力しようとやってきたところがあったので、その喪失感は半端なかったのです。サッカーによって人々を幸せにし、人々の気持ちを豊かにしてきたペレ。ペレが築いてきたサッカーの礎を僕も微力ながら引き継ぎ、ペレにはとても及ばないけれど、サッカーの繁栄にこれからも貢献していきたい、といまは思っています。

エドソン・アランテス・ド・ナシメント氏のご冥福を心よりお祈りするとともに、心を込めて感謝の意を表します。Obrigado!

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増島みどり プロフィール

1961年生まれ、学習院大からスポーツ紙記者を経て97年、フリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。
98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」(文芸春秋)でミズノスポーツライター賞受賞、「GK論」(講談社)、「彼女たちの42・195キロ」(文芸春秋)、「100年目のオリンピアンたち」(角川書店)、「中田英寿 IN HIS TIME」(光文社)、「名波浩 夢の中まで左足」(ベースボールマガジン社)等著作も多数

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