日本代表「ドーハの勇気」でドイツ倒す 「コラッジョ!」「オー、コラッジョ!!」ミックスゾーンに響いた吉田と長友のイタリア語の絶叫
試合が終わり、対面で取材ができる「ミックスゾーン」選手が登場する。コロナ禍でほぼすべての取材がオンラインで行われてきたこの2年半、もし、ドイツ戦に勝利した日もオンラインン取材だったらどれほど空しかっただろう、と実感しつつ選手を待った。
決勝点を奪った浅野が登場し「4年前から、こういう日を想像して一日も欠かさず努力してきた。振り返って後悔があった、と思う日は一日もない」と、堂々と答えながら取材に応じている時、髪を赤くした長友佑都が通過。長友は浅野の肩を大きく何度もたたいて「コラッジョ!」と大きな声で繰り返した。
その後に吉田麻也が続く。吉田と長友はロッカーではまだ対面できていなかったようで、ミックスゾーンで初めて抱き合い、大声で「コラッジョ!」と吉田が言うと、長友は「おー、コラッジョ!」と吉田に飛びついた。2人はしばらく抱き合ったまま、動かなかった。
「コラッジョ」はイタリア語で「勇気」。1点先制されても、守備に走りまわされても、シュート1本でも、前半を終えて日本代表は勇気を持って3バックに臨み、諦めなかった。遠藤は脳しんとうの後遺症、頭痛や嘔吐と戦い、板倉と浅野はひざの内側じん帯を痛め、所属クラブの試合にも出られない日を過ごしてきた。南野は森保監督指揮下の日本代表で最多となる42試合に出場、17得点をあげたが、今季は出場機会が減り、堂安もクラブで結果を出しても、代表につながらない苦しい時期を過ごした。 吉田と長友は、4年前のロシア大会でベルギーの超高速カウンターをピッチで経験し、芝に倒れ込んだ感触を鮮明に記憶して4年を戦ったはずだ。
それぞれがドーハで見せた「勇気」によって、98年に始まった日本代表のW杯の歴史で初の逆転勝ち、初の優勝国を倒すジャイアントキリングをやり遂げ、同時に、初のベスト8以上に向けてこれ以上ないスタートを切る最大の要因となった。
森保監督の勇気が「源」だ。後半スタートから冨安を投入し3バック、或いは5バックに大変身。森保監督指揮下では、オプションとして試合の終盤に3バックを敷く試合はあったが、これほど早い転換はこの大舞台が初めていう大胆な一手。まるで違った2つの表情を持つチームを90分で演出した。
三笘薫は試合後、「ぶっつけ本番というところはあった」と、選手もまさか頭からとは思っていなかったと告白。そのうえで「監督の決断は素晴らしかった」と話した。遠藤航も「もしあのまま少しでも後半に入っていたら難しくなっていたと思う。(頭から行ったのは)監督の素晴らしい判断だった」と、選手をも驚かせる大胆な3バック転換のタイミングに感嘆した。
加えて監督は、W杯初出場の選手たちの「(経験よりも)野心と勢いにかけたい」(11月1日の代表発表会見)と話してきたように、手元にずっと大切に揃えてきた「野心のジョーカー」たち(切り札)を立て続けにドイツにたたきつけた。後半12分には三笘と浅野を同時に投入。速さと、日本選手のタフネス、想像しなかったはずのシステムとその迫力にドイツが慌てふためいている26分にはすぐさま堂安を投入し、その4分後には、南野を入れて畳みかけた。浅野、堂安、南野3人が試合を決めたのは、「野心にかける」とした監督の思いが選手に伝わっていたからだ。
ドイツが交代カードを初めて切ったのは、後半22分。その時には日本はもうすでに3人の交代選手が試合の流れを日本に引き寄せるかと、ピッチを走り回っていたのだから、監督の鮮やかな先制パンチの効果が伺える。
「ドーハの悲劇を歓喜に変えたい」ー森保監督は1993年のアジア最終予選の記憶の払拭と日本サッカーの発展両方を同時に掲げるスローガンを常にそう口にしてきた。ドイツ戦の歴史的勝利は「ドーハの奇跡」とも言われるだろうし、「ドーハの歓喜」とも呼ばれるだろう。ただ森保監督なら「奇跡も歓喜もベスト8以上を達成してこそ」と言うはずだ。だから、歓喜や奇跡といった表現ではなく、何より選手、監督、チームが見せた「ドーハの勇気」を称えたい。