スポーツライター増島みどりのザ・スタジアム

2022年9月10日 (土)

アルゼンチンで日本と南米の交流に尽力した北山朝徳氏も殿堂入り コラム「北山さんに腕を引っ張られた時の、強さと温かさ」

 今回、弟の太郎章さんが受賞に出席した北山朝徳さん(きたやま・とものり)は、70年代に旅行代理店、運送業に貿易、漁業から全て扱う会社「トーシン」をブエノスアイレスで起業。78年のアルゼンチンW杯、79年に日本で行われたワールドユース選手権を機に、日本サッカーとの交流を深め、世界でまだ認知されてもいなかった日本協会の国際委員にも就任し、サッカー大陸南米と日本をつなぐために奔走した。
 日本が02W杯に立候補した際は、韓国と激しい招致争いになり、FIFA(国際サッカー連盟)理事のいない日本は、理事会にメンバーとして入っている韓国より明らかに不利だった。投票権を持つ理事のうち、政治的な思惑から、日本支持を表明しながら韓国へと投票を変える欧州勢とは異なり、北山氏が懇意にし、厚い信頼関係を築いていた南米の理事たちは日本支持を最後まで貫き通した。「我々は日本を絶対に裏切らない」と、血判状のような紙を日本の関係者の前に出してくれたという。最終的には共催となったが、日本と南米の間で当時、北山さんが丁寧に、丁寧に作った土壌が、その後、日本のサッカー界だけではなく、20年東京五輪の招致にも大きな力を果たしている。
 同氏の尽力で、日本は1999年、初めて、世界でももっとも歴史を持つとされる南米選手権に招待され、20年後の2019年にも森保監督率いる日本代表が再び招待(開催地ブラジル)された。北山氏がブエノスアイレスの病院で亡くなったのは、奇しくもこの大会期間中だった。ブラジルで取材中で、こんなエンディングがあるのだろうか、と、北山さんのお陰で来られた南米選手権で寂しさがこみ上げた。
 
 私は記者としての気概を教えられた。W杯招致活動の取材中、大物と言われる南米理事の前で気後れし話を聞こうかとまごまごしていると、北山さんにドン、と背中を押された。
 「日本のジャーナリストがそんな遠慮しとったら、こっちのサッカー記者たちには絶対勝てんよ。それじゃあ日本のサッカーは強くならん!」耳元でそう言うと、腕を引っ張ってアルゼンチン協会会長の前に連れて行き、わざわざスペイン語の通訳をして下さった。ピッチの得点だけでも、協会の政治力だけでもない。記者だって日本が世界で認めてもらうメンバーの一員だ。少なくても、そういう気概を持って仕事をしなさいと、あの時、腕を引っ張られた強さと、温かさに教えられた。
 そして、きょうの殿堂入りで、北山さんの笑顔を見ながら、またあの時、会長の前に引っ張って行って下さった力強くて、温かな手の感触を思い出した。

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増島みどり プロフィール

1961年生まれ、学習院大からスポーツ紙記者を経て97年、フリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。
98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」(文芸春秋)でミズノスポーツライター賞受賞、「GK論」(講談社)、「彼女たちの42・195キロ」(文芸春秋)、「100年目のオリンピアンたち」(角川書店)、「中田英寿 IN HIS TIME」(光文社)、「名波浩 夢の中まで左足」(ベースボールマガジン社)等著作も多数

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