パラリンピックトライアスロン 「フィニッシュラインではなく、’ゴール’を目指した谷真海の長く、タフなレース」
29日=パラリンピック運動機能障がい(PTS5)女子 今大会日本選手団の旗手を務め、走り幅跳びとトライアスロンで4度目出場となった谷真海(39=サントリー)が、1時間22分23秒の10位でゴールした。最初のスイムを5位でバイクに。しかし高い湿度のなか、ランのラストではトップと10分差の最下位となった。それでも、最後の周回では、沿道で声援を続けた夫と、肩車された長男に笑顔で手を振ってゴールへ。ボランティアらに声援に笑顔を見せてフィニッシュした。
レース後、「苦しかったけれど、それも含めてのトライアスロン。この場に立てて最高に幸せな気持ち。最後まで粘る力をもらいました」と、競技を転向して挑んだ9年ぶりの舞台の感触を胸に抱いた。
11年の東日本大震災で故郷・気仙沼の実家を失う。しかし交流に回った被災地の子どもたちに、12年ロンドンパラリンピック出場を誓い、それを果たした。翌13年には、招致活動を成功に導いた「スポーツの力」を訴え、その後結婚、出産のブランクを経て競技に復帰した。谷の障害クラスの消滅やコロナによる1年の延期と、様々な困難のなか、五輪招致の際、自らが訴えた「スポーツの力」を体現し、諦めずに前を追い続けてきた。
「フィニッシュラインではなく、‘ゴール’を目指した谷」
ゴールにはもちろんスタート(起点)がある。
谷がこの日、お台場のフィニッシュラインに笑顔でたどり着いた時、彼女が挑んだこの壮大なレースのスタートは、一体どこだったろう、と考えた。海浜公園のスイムの地点から10位で踏んだフィニッシュラインと、彼女が目指し、とうとう完走した’ゴール’は、少し違っているように思えたからだ。最下位となったランのラストの周回、14年に結婚した夫の昭輝さんと、肩車され、気仙沼で育った自分と同じ「海」を名前に抱く長男の海杜(かいと)君は、「マミー!」と大きな声をかけ、3人はその時、輝くような笑顔を交わしていた。恐らく、メダル以上に家族が叶えたかった瞬間だったはずだ。
勤務するサントリーはコース上にあり、選手村に入村してからも毎日、自室から海杜君が通う幼稚園のお迎えバスを見ながら、「豆粒のように小さいですが、手を振っています」(谷)と笑っていた。「私にとってここはホーム。力いっぱい突き進むだけです」と、レース前に話した通り、長く、タフなレースを自分の「ホーム」で終えたのも運命的だった。
13年の東京五輪・パラリンピック招致活動のプレゼンテーションでは、パラピアンの若い女性が異例のトップバッターとして起用され、大学生で骨肉腫が判明し右ひざから下を切断した経験、11年3月の東日本大震災で故郷が津波に襲われ実家を失くした経験を「スポーツが私を救ってくれた」と、「スポーツの力」を自身の言葉で訴え、これが招致成功に大きく貢献した。
この活動を舞台裏で支えた夫と、翌年の14年、招致が決まったのと同じ9月7日に入籍し、翌年長男を出産する。トレーニングなどで挑戦していたパラのトライアスロンのクラスが、東京で正式に種目になる巡り合わせに本格的に転向した。
しかし18年には、谷のクラス、PTS4の競技人口が少ないとパラのクラスから消滅する。この時も、国際連盟関係者にレターを自ら送り「チャレンジする機会の公平性」を訴え、クラスは復活しなかったが、障害のレベルが谷よりも軽くなるクラスで大きなハンディを負いながらも東京に挑み続けた。
コロナ禍で大会の1年延期が決まるなか、子どもと夫を、ある部分では犠牲にしなければならないアスリートとしての生活を続けるのか、悩む。こうした状況下で夫の病気が判明、治癒に向けて全力でサポートした。招致で訴えた「苦境を乗り越えるためのスポーツの力」を自分自身に問いかけ、証明し、パラ競技の可能性を体現し続けた。
希望に満ちあふれた大学時代に足を失った日なのか、義足を付けて初めて走れた日なのか、アテネ大会に初出場して世界のパラリンピアンの強さや輝きを目の当たりにした日なのか、勇気のスピーチを成功させた日なのか・・・。谷がこの日、笑顔で踏んだ「ゴール」の起点とは、点が線へと動き出したのはいつだったのだろうか。壮大なレースを終えた今、ゆっくりと聞いてみたい。