スポーツライター増島みどりのザ・スタジアム

2019年6月30日 (日)

指揮を執って6季 最下位で辞任名波浩監督 「チームマネージメントの手応えと、勝負に徹する課題」

 名波浩が「監督」となって4年9カ月、本来なら監督キャリアを歩み始めたばかりのルーキーにかかる期待は、普通の新人監督とは全く異なっていた。ジュビロ磐田のまばゆいばかりの黄金時代を築いた柱であり、W杯に初出場を果たした98年フランスW杯日本代表の中軸であり、日本サッカー界において常に時代をけん引してきた名波が育った、それもどん底に沈んでいたクラブに戻った時に背負った重荷は、そもそも「普通」の重量ではない。コーチやユース年代の監督といった指導者としての準備プロセスを経ずにいきなり古巣の監督になり、5年近く指揮を執ったキャリアも稀だ。J2で成果を上げられず、しかも黄金のかけらもなくなってしまったクラブに、他のクラブからのオファーがあったにもかかわらずあえて戻ったのは矜持だろう。
 2012年は年間12位、13年は17位とついにJ2に降格。14年、残り10試合で火中の栗を拾うかのように、愛するクラブに戻ったが、どん底はさらにあった。14年、プレーオフでアディショナルタイムに失点しJ2に残る。J2の3年目はクラブを慎重に、丁寧に観察するとこから始まった。選手とスタッフ、現場とフロント、選手同士、かつて美しいサッカーに魅了されたはずのファンとクラブ、地域とジュビロ、「全ての関係性が硬直し、まるでヒビが入っていたように感じた」と、当時の取材に答えている。
 翌年、同じようにアディショナルタイムの崖っぷちに立たされたクラブは昇格を果たし、15年、3年ぶりにJ1に復帰。17年には黄金期以来となる5連を達成。年間6位の大健闘を見せた。感染症や高熱のため入院したが、それをひたすら隠し、手首に名前と病室が記入されたリングをつけたまま、指揮を執った試合もある。

 この日はいつもの「チャント」もなく、試合後は「ナナミ、謝りに来い!」といった激しい言葉がゴール裏で飛んでいた。最下位なら当然だ。「きょうは全てさらけ出すつもりだった。(サポーターにも)そういう対応をしようと思っていたので一番に謝罪をしに行った」と話し、コールリーダーに伝えたことを明かした。会見でも「結果が出せなかったことは真摯に受け止める」と話した。敗戦に生卵やパイプ椅子を投げられた経験もある監督にとって、磐田のゴール裏とはどれほど心強い場所だったかと想像する。
 どん底から4年、遠のいていた観客は少しずつ戻り、クラブと地域、スポンサーとクラブ、選手同士、スタッフと、フロントと、互いに意見を言い合い、クラブを前に進める、自ら愛したクラブのそういう土壌も再生はした。
 名波はこの5年足らずの間、常に自己評価し、項目を定めた「通信簿」を毎試合をつけていた。監督1期目を終えた通信簿は・・・
「チームマネージメントは自信を持っていい。色々なクラブや監督をお話させて頂いて、選手とのコミュニケーションはまぁまぁではなく良かったと思う。ただし、チームを勝たせる監督ではなかった。それがこれからの自分の監督としての課題になる」
 今後も監督として勝負の芝に立ち続けるはずだ。「何にも代えがたいサッカーという日常」を追い続けて。

[ 前のページ ] [ 次のページ ]

このページの先頭へ

スポーツを読み、語り、楽しむサイト THE STADIUM

増島みどり プロフィール

1961年生まれ、学習院大からスポーツ紙記者を経て97年、フリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。
98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」(文芸春秋)でミズノスポーツライター賞受賞、「GK論」(講談社)、「彼女たちの42・195キロ」(文芸春秋)、「100年目のオリンピアンたち」(角川書店)、「中田英寿 IN HIS TIME」(光文社)、「名波浩 夢の中まで左足」(ベースボールマガジン社)等著作も多数

最新記事

スペシャルインタビュー「ロンドンで咲く-なでしこたちの挑戦」