スポーツライター増島みどりのザ・スタジアム

2012年6月21日 (木)

「ベストダイブをロンドンで」2大会連続出場、たった一人の飛び込み代表・中川真依-ロンドンで咲く なでしこたちの挑戦(前編)

 飛び込み競技を見ると、とても浅はかな「素人考え」と分かっているのにいつも思う。水に飛び込むことの恐怖より、その高さまで上って行くときの恐怖のほうを。

 難易度の高い技やその精度、つまり10メートルの高さから「飛び込む」ことはいつも質問している。10メートルの高さから入水する瞬間、時速は50キロにも達し、身体には1トンにも及ぶ衝撃があるというのだから、水面から顔を出すまで気を抜くことはないはずだ。
 しかし「ノースプラッシュ」(水しぶきが全く上がらない飛び込み)を目指して台に立つ以前に、あんな高さまで上がっていく時間をどう思うのだろう。コンディション不良やメンタルで少しでも不安を抱えていれば、上がって行く途中で「もう止める」と、引き返したくなるような恐怖に襲われることはないのだろうか。

 6月上旬、ロンドン五輪の飛び込み競技ではただ一人の代表となった中川真依(なかがわ・まい、金沢学院大大学院)の取材に、富士水泳場(静岡県)に向いながら、そんなことを考えていた。五輪前のスペイン、イタリア遠征のため、飛び込みだけではなく、筋力トレーニング、身体の調整を午前、午後とみっちり行う合宿中、心身の疲労によって本数は変わるが、1日ほぼ20本を飛んでいるのだという。

 大学生で臨んだ北京五輪では、初出場ながら決勝進出を果たして11位と大健闘。再び五輪出場を叶え25歳となった女性は、1トンにもなる入水時の衝撃を「最初に」受け止める指先に、華やかな赤を交えた繊細なネイルを施していた。競技中は外している右手の指輪には、特注した五輪マークが模られている。
 手入れの行き届いた指先には、その美しさ以上に、恐怖や衝撃など寄せ付けないという強い意志や、オリンピックへの思いが詰まっているようにも見えた。
 午前と午後の練習の合間、静かな応接間で話を聞きながら、彼女の美しくも「戦う指先」は終始無言で、しかし強い光を放っているようで。

(取材・文:スポーツライター 増島みどり)

『引きこもりから、10メートルの台に上がるまで』

―2大会連続の出場が叶いましたね。Nakagawa_1_2

中川 ウソのようです。

―どうしてですか?

中川 去年は一度も勝てませんでしたし、もう引退しようと考えたこともありましたから。初めて経験する「心のスランプ」に、ロンドン五輪を目指す意味が自分の中に見つけられなかったんですね。

―かなり重かったのですか。

中川 はい。苦労して準備しても成績に結びつかず、真っ暗なトンネルに入り込んでしまったようでした。きょうがドン底、きょうがドン底…明日からきっと上がってくるんだ、と自分に言い聞かせましたが落ちて行く一方で。
そのうちに、夜、寝ていても不安に襲われるようになり、昨年の国体の後は、もう誰とも会いたくないと思うまで落ち込んで自宅に引きこもりました。ロンドン五輪前年だというのに、連続出場を現実として受け止め、努力するような自分を思い浮かべることさえありませんでしたね。

―北京では大学生で初めての五輪に挑戦して11位と大健闘され、順風満帆かと思っていました。原因は何でしょう?

中川 これまでそうした壁に当たることがなかったので、歯車のどこかが少しずつかみ合わなくなっていく状態に対応しきれなかったのかもしれません。今まで考えたこともなかったメンタルトレーニングを、初めてしっかりと受けてみようと、先生のもとを尋ねました。今振り返ると、あれがロンドンへの第一歩だったのかもしれませんね。でも当時はもう必死でしたから、最初は先生に話を打ち明けながら、ただワーッと泣くだけで終わってしまいました。混乱していたんでしょうね。

―話していくうちに何かが変わって行きましたか。

中川 不思議だったのはそんな状態にいながらも、練習だけは止めなかったことです。どんなに辛くても練習には身体を運ぼうとする自分がいるんです。先生には、だから今のスランプも良い方向に行くためのステップだとアドバイスをされ、昨年末には、呼吸方法や集中力を高めるために右脳を使うイメージトレーニングなどに取り組めるようになりました。日々起きたことを書きとめ、先生との面談ではどんなに小さなことでも話す。嫌なこと、辛いことを忘れるのではなく、消化して受け止める。そういう考え方に徐々に変わりましたね。

―メンタルも呼吸法で変わるのですか。

中川 そうですね、とても大切だと思います。例えば、息を1回吸うにもただ空気を取り込むのではなくて、ポジティブな気を意識してゆっくり吸い込んで、ネガティブなものを吐き出す。そういうイメージでしょうか。こうしたトレーニングのお陰で、周りをシャットダウンして高い集中ができるようになりましたね。

―オリンピックの決勝に進出し、世界で11位になるようなアスリートでも、これほどのスランプに突然襲われるものなのですね。
そういうとき、10メートルの高さに上がって行くのは怖くないのでしょうか。
トップ選手に対して失礼ですが、途中で引き返したい、とか、もう止めた、とはなりませんか?

中川 あります。泣きながら階段を上がって行くんです。

―泣きながら?

中川 逆に調子がよくて自信があるときは、階段を上がっている、なんて思う間もなくあっという間に上に着いちゃうものなんです。面白いですよね。

―選手が泣いていても、下からじゃ涙なんて到底見えませんものね。

中川 飛び込みでは空中の視野がとても大切です。自分の安全を確保する意味でも、しっかり見ていないと危ないんですね。だから飛び込むときには涙を止めないと視野がなくなってしまう。でも飛び込んでしまえば、涙も水中でどこかへ流れちゃう。入水で1トンの衝撃が身体にかかると言われていますから、最後まで気持ちを緩めず、身体も「締める」と表現しますが、水中に入っても衝撃から身を守るために身体を締めていないと、肩を持って行かれて脱きゅうするんですよ。どんなに辛くても、そこは集中しています。

―10メートルから飛び込んで涙の痕跡を消すなんて。メンタルがどれほどのウエイトを占めるか、ですね。

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増島みどり プロフィール

1961年生まれ、学習院大からスポーツ紙記者を経て97年、フリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。
98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」(文芸春秋)でミズノスポーツライター賞受賞、「GK論」(講談社)、「彼女たちの42・195キロ」(文芸春秋)、「100年目のオリンピアンたち」(角川書店)、「中田英寿 IN HIS TIME」(光文社)、「名波浩 夢の中まで左足」(ベースボールマガジン社)等著作も多数

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