スポーツライター増島みどりのザ・スタジアム

2011年8月30日 (火)

寺川綾「ロンドン五輪が初出場、そして最後だと思って」ロンドンで咲く-なでしこたちの挑戦(前編)

「苦節10年、涙の銀メダル」と周囲は評する。しかし、7月の世界水泳(上海)50メートル背泳ぎで、世界水泳初出場以来10年目にしてようやくメダルを手にした26歳の寺川綾(ミズノ)は「苦節」を笑い飛ばし、「とんでもない。楽しくあっという間で、今ようやく、世界と戦える、と心から思える」と、10年もの時間の充実ぶりに自信をのぞかせる。
水中の「なでしこ」は、最初で最後との思いで、ロンドン五輪を見据えている。

(取材・文:スポーツライター 増島みどり)

苦節どころか、楽しく充実した10年

――世界舞台に高校生でデビューされてから10年をかけて獲得した世界水泳のメダル(上海大会50メートル銀)は、苦節とか、悲願といった表現をされていますね。

寺川綾 確かに時間だけを見れば長いのですが、私にとっては、苦節では全くありませんでしたね。むしろ、あっという間に年月が過ぎた、充実した楽しい10年でした。自分なりに、多くの経験を重ねて「引き出し」をたくさん作り、そこに色々なものを詰めてきた時間でしたし、いつも100%で取り組んできたつもりです。何か失敗をしたために10年かかったとは、全く思っていません。

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――では、銀メダルを10年越しで手にされても、これでよかったとか、目標が達成できた、とは思われていない。

寺川 はい。100メートル(5位)は決して悪いレースではなかったんです。ですから50メートルで2位になれたことによって、狙っていた100メートルでさらにレベルの高い、いいレースができたのではないか、と、悔しさのほうがこみ上げてきてしまって。ここまで支えて下さった方々には、メダルを取ることが感謝の気持ちを表すひとつの成果だと思いました。けれども、こと水泳に関していえば、初めて手にしたメダルが、自分に足りないものをはっきり示してくれたんではないかな、と考えています。

――50メートルのメダルは、スプリント力に優れていることを示すものですから、確かに100メートルもメダルが十分に狙える位置だ、という結論になりますね。

寺川 日本国内ならば、あの100メートルでも勝てるかもしれませんが、世界のラストスパートにはまだまだ足りないんですね。表現すると、ターボチェンジといった言葉になるでしょうか。ラストスパートに、もっと瞬発力のある、爆発的なスピードの切り替えができないと世界では戦えない。今回、決勝のレースで、自分が世界で戦える位置にいるんだ、とやっと心から思えるようになりました。

――やっと、ですか?周囲は、寺川さんがデビューしたときから、世界を相手にする逸材だと思っていたんですが、ご自身はそうではなかったのですか。

寺川 19歳で初めて出場したオリンピック(04年アテネ)前の違和感は、今でも忘れられません。私自身、初めての経験になるんだし、世界中のアスリートが憧れる舞台に立てれば最高だなぁ、うれしいなぁという気持ちでした。例えば、「オリンピックに出たいレベル」があったとして、私の中ではレベル5くらいなのに、周りはもう10とか12! 出られればいいなぁ、なんていう話では全くなくて、メダルだ、表彰台に立てる、そんな話ばかりでした。期待してもらえることはとてもうれしい反面、自分の気持ちが、周囲の期待についていっていなくてとても辛かった。ですから、最初のオリンピックの記憶がどうも湧いてこないのです。

――北京に出られず、大阪からこちらに出てこられて、東京SCで平井さんに指導を頼まれたのが、08年末ですね。

「引き出しが空っぽだぞ!」と指摘されたこの3年間

――平井さんの指導を受けられるようになって、一番の変化は?

寺川 最初に、よくそんな状態で泳いでいたな、と言われました。

――ショックでした? 先ほどお話されていた「引き出しを作って、経験を詰め込んだ」と表現されたキャリアを否定されたわけでしょう?

寺川 先生には、私の中にたくさんあった引き出しを次から次へと開けてもらい、「オイ、寺川、色々詰まっていると言っていたけれど、お前の引き出し、空っぽだぞ」と指摘されたようなものですよね。指導を受け始めた頃、先生に言われた通りに泳いでみた後、「感覚的にどうだ?」と聞かれて、プールの中で、「(平井氏の理論で泳ぐのは)絶対に無理です」と言いました、今思うと笑ってしまいますけれど、「無理です!」って。

――理論も、アプローチもこれまでの寺川さんのものとは、違っていたわけですね。

寺川 大阪のイトマンスイミングスクールでは大切な基礎を徹底して教えてもらい、それが今の私を支える土台になったことは間違いありません。一方で、子どもの頃から選手として泳ぎ続け、周囲に大事にされるあまり、少し小さな世界で泳ぐようになっていたのかもしれないですね。ですから、引き出しが空っぽと言われたときに決めたんです。これからは、先生が右といえば右を向こう、この色は黒、と言えば白でも黒と思おう、と。私はそれまで、自分が本当に納得しなければなかなか動かなった。でも平井先生について3年は、とにかくまず言われた通り、体を動かしてみる、といった考え方で取り組んできました。先生にも、「最初は中村礼子さん(アテネ、北京両五輪200メートル背泳ぎ銀メダル)も戸惑っていたけれど、できたのだから大丈夫だ」と言われました。

――具体的には?

寺川 技術的には難しい話もありますが、例えば頭の位置ですね。アゴを引いて、ヘッドアップし、手のかきも、私はこれまで一度横に置いてから水をかいていましたが、これもそのまま流れるように水をとらえる。

――例えば、入江選手は、額にペットボトルを置いて泳げるほど重心が動かないといった特徴がありますよね。寺川さんがこだわり続けている泳ぎ、ご自分にしかない特徴はどこでしょう。

寺川 それがないんですよ、これといって特徴やいいところが。

――そんなことはないでしょう?

寺川 昨年、アメリカの科学分析チームに泳ぎを解析してもらったことがあります。その結果、私の泳ぎには加速もないし、減速もない、って出て…。

――減速も加速もない?

寺川 そうなんですよ。大きく加速することもないかわり、減速するような動きもない、と。これって特徴がないですよねぇ。その際、色々な数値から、200メートルのほうにむいている、と結論が出たんです。でも、そんなはずはない、私は100メートルです、って粘って100にこだわっています。

――ところで寺川さんに以前お話を聞いた際、水の中が一番落ち着く場所、とおっしゃっていましたね。印象に残っています。

寺川 今でもそうです。海も、温泉も大好きです。時間ができると、海に行きますし、本当は南のほうの島で海に潜る時間が最高なんです。潜るといっても、私は素潜りですけれど、本当に楽しい。

――水泳選手として一線で、こんなに長く泳いでいると子どもの頃に想像されましたか?

寺川 いいえ、全く考えもしませんでした。私、子どもの頃の夢は、シャチのトレーナーになることだったんです。

――シャチって、あのシャチですか?イルカとクジラの間の。

寺川 そうなんです、シャチにすごく憧れて。

――トレーナーに憧れたんじゃなくてシャチなの?

寺川 シャチに、です。とってもかっこいいんですよね、シャチって。

――どのあたりが?

寺川 泳ぎも、どこか大きくて、それでいて鋭いし。

――あまりそう見たことがなかったのでこれから注意してみます。では今でもシャチを観に、水族館などに?

寺川 はい、行きますよ、ショーをみたいときなど。シャチやイルカを触らせてもらうなどのアトラクションがありますよね? でも、大体子どもたちが呼ばれてしまうのですが、私、いつも、「触りたいヒトォ?」、「ハイッ! ハイッ!」って客席で手を上げています。

――手の上げ方も、ちょっと背泳ぎ風ですけれど。

寺川 幼稚園のころは、母に、お風呂でイルカを飼いたいとせがみました。母は、それは無理だ、と。

――無理でしょうね。

寺川 海に入っていても、プールにいても、なんともいえない、水の感覚が大好きなんです。もちろんプールは感覚が好き、といっていられないほど練習がキツイですけれども。

――貝類もお好きみたいですから、海女さんになったら連日大漁になるんじゃないですか?

寺川 すごく興味があります! やってみたいですよ。

――競泳プールだけではなくて、海で気持ち良さそうに泳ぐ寺川さんも是非拝見してみたくなってきました。

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増島みどり プロフィール

1961年生まれ、学習院大からスポーツ紙記者を経て97年、フリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。
98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」(文芸春秋)でミズノスポーツライター賞受賞、「GK論」(講談社)、「彼女たちの42・195キロ」(文芸春秋)、「100年目のオリンピアンたち」(角川書店)、「中田英寿 IN HIS TIME」(光文社)、「名波浩 夢の中まで左足」(ベースボールマガジン社)等著作も多数

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