スポーツライター増島みどりのザ・スタジアム

2011年6月22日 (水)

柳沢敦インタビュー「ベガルタのため、仙台のため、宮城のために何ができるか」(後編)

ピッチで何を表現するか、そして人として、何ができるか考え続けたい

―そんな中で、一人で避難所に行かれた。

柳沢 クラブの活動のメドが立たない中、自分から先ず動くべきじゃないか、と思ったからです。市役所に電話をかけ、ボランティア登録をするように言われ、センターに行くと、避難所で混乱しないように、胸に、ボランティアと書かれた大きなシールを貼ってください、と言われました。それを胸に貼ったとき、キャプテンマークを巻いてピッチに立つより、胸にシール貼るほうが先になったな、と不思議な気持ちになりましたが、同時に、自分にできることは何でもやろう、と思えました。

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―柳沢選手だと分かった方も?

柳沢 全く分からないまま手伝うこともありましたし、「再開したら、がんばって」と応援されることもありました。国際試合などサッカーでは色々な経験をさせてもらってきましたが、今回は、本当に初めての、未知のことばかりでとても緊張していたし、ボランティアはどう動けば一番役に立てるのか、バランスが本当に難しい。僕だけではなく、ベガルタのみんなもそれぞれに避難所を回ったり、子どもたちと遊んだり、偶然に避難所で会うこともありましたね。あるとき、センターから電話で、子どもたちにサッカー教室をやってもらえますか?と聞かれ、もちろんです!、ともう張り切って、前夜には生真面目にビシッと、子どもたちの練習メニューなんか立てちゃって…

―ヤナギらしい。

柳沢 そうなんです。もう、これやって、あれもやって、と張り切って校庭に行ったら、何と子どもが100人!も僕を待っていてくれた。エーッ、こんなに多かったらこのメニューじゃダメだよって、頭ん中もうパニックです。そうしたら、チームメートの桜井(繁・GK)がたまたま同じところに来ていて、「これなら、ボールいくつか使って、みんなでゲームをやったらどうでしょう」と助けてくれて…。結局、みんなでボールを追いかける「おだんごサッカー」でしたが、子どもたちは大喜びで自分もサッカーって楽しいな、と改めて実感して、本当に勉強になりました。

―リハビリ中もボランティアを続けていましたね。

柳沢 あるとき、サインをしていると、僕のユニホームが広げられたんですね。話を伺ったら、僕が鹿島でプロになってからすべてのユニホームを集めてくれていたというファンの方が震災で亡くなられたので、彼女のために、ユニホームにサインをしてもらえるか?と。本当に想像を絶する被害の中、多くの方々が亡くなられてしまった。その中に、自分が知らないところで、自分をずっと応援してくれたファンがいたという現実を目の当たりにし、胸が痛んだ。

―盟友の小笠原選手(満男・鹿島)もずっと活動していますね。

柳沢 長く彼と付き合ってきましたが、今回の行動力には本当に驚かされましたし、励まされてもいる。もともと凄く優しい男なので、今回の活動についてはよく理解できましたし、これからクラブは違っても、お互いできることはたくさんあると思う。サッカーがすべての人にとって、前向きになれる材料というわけではありません。今回、色々な活動をさせてもらって、難しいと思うこともたくさんありました。でもサッカーが好きな人、興味のある人たちに、自分がピッチに立つことで何か表現できるものがあるんじゃないか、と、今は考えています。

―リハビリ中に34歳になられた。

柳沢 そうですね、まだまだゴールを積み重ねていきたいし(現在Jリーグでは、中山雅史、カズ、前田遼一に続き日本人4番目の101点)、何よりも新しいチームで結果を出してみんなに信頼されるようになりたい。移籍した最初の年は、まずはそこからですから。

―移籍した場所で、震災に遭われた。被災地にある、プロクラブのキャプテンとしてどう考えていますか。

柳沢 運命だったのかな、と。今年、入団会見で記者の方に、いくつかのオファーから仙台を選んだ決め手は何でしたか?と聞かれました。今、あのときの答えは間違っていたと思う。僕が仙台を選んだのではなく、仙台が僕を選んでくれた、ここに来られたのは運命だった、と。これが神様に与えられた試練なら、ベガルタのため、仙台のため、宮城のため、そして東北の復興のために何ができるのか、サッカー選手としてピッチで出す答えのほかに、人として、それも考え続けていきたい。時間はかかるけれど、みんなで乗り越えていきたいと思っています。

柳沢敦(やなぎさわ・あつし)

富山第一高校(富山県)卒業後、1996年に鹿島アントラーズに入団。1998年から日本代表に選出される。2003年にはイタリア・サンプドリアに、翌2004年にはメッシーナに移籍する。2008年に鹿島アントラーズ復帰、京都サンガF.C.を経て、2011年にベガルタ仙台へ移籍。
2010年5月には史上6人目(日本人は4人)のJリーグ通算100ゴールを達成した。ポジションはFW。Jリーグ通算101得点。国際Aマッチ通算58試合17得点。177センチ、75キロ。昨年長男が誕生した。

【ベガルタ仙台2011年Jリーグ戦績】
6勝6分0敗 ※2011年6月22日(第17節)現在

3月 5日対サンフレッチェ広島0△0
4月23日 対川崎フロンターレ2○1
4月29日 対浦和レッズ1○0
5月 3日 対アビスパ福岡1○0
5月 7日 対セレッソ大阪1△1
5月14日 対ジュビロ磐田3△3
5月22日 対モンテディオ山形1○0
5月28日 対横浜F・マリノス1△1
6月 5日 対柏レイソル1○0
6月11日 対ヴィッセル神戸1△1
6月15日 対ガンバ大阪2○1
6月18日 対アルビレックス新潟1△1
6月22日 対ヴァンフォーレ甲府4○0

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増島みどり プロフィール

1961年生まれ、学習院大からスポーツ紙記者を経て97年、フリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。
98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」(文芸春秋)でミズノスポーツライター賞受賞、「GK論」(講談社)、「彼女たちの42・195キロ」(文芸春秋)、「100年目のオリンピアンたち」(角川書店)、「中田英寿 IN HIS TIME」(光文社)、「名波浩 夢の中まで左足」(ベースボールマガジン社)等著作も多数

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