大東和美チェアマンインタビュー(3)
―地域密着から、地域のリーダーへ―
―27都道府県に37のクラブができましたが、拡大路線を今後どう発展させるかも緊急の課題ですね。18年を迎えるJリーグの、社会における立ち位置、存在感について、どうお考えになりますか。
大東 百年構想という長いスパンの中で見れば、地域とスポーツの新たな関係を築きあげ、ここまで劇的に変化を遂げたと思います。しかし、地域密着のその次、地域のリーダーであり、地域の大きな財産になる時代を目指して行く時期が来ているとも思いますね。創設当時、10クラブでスタートしたリーグも、J1が18クラブになると、各クラブで考え方、クラブ経営、運営と大きな差が出てきているのは事実でしょうね。経営の多様化は当然のことですが、もういっぺん原点に返りながら、地域密着の次の使命、目標を全体としてしっかり追いかけるときだと考えます。
―クラブ経営についても、バラつきが大きくなっています。「ロマンとソロバン」の、ソロバンについてもう少し詳しくお話下さい。
大東 クラブ経営者時代、クラブ規模の予算とは別に自分だけの「ポケット」を持つようにしていました。
―大東ポケットですか。
大東 そうです。たとえば強化担当と、シーズン前に今季の強化費をどうしようかとミーティングを重ねます。クラブの予算をベースに考えた場合、強化の立場からいえば、オーバーになるのは当然なんです。
―ACL(アジアチャンピオンズリーグ)も入ってきますから、現場としては、多め、多めに補強したくなる。
大東 そうです。だから、クラブの予算とは別に、少なく見積もった予算を社長として立て、『この中で収めよう』と話し合う。そうすると、大体、クラブの予算に収まるか、誤差の範囲内で組むことができます。各クラブの収支報告を見てみると、この「見積もり」が少し甘い部分があるように感じますね。入場者収入など、収入のリスクを考え、人件費、運営費を見る。ソロバンとは、リスク分を組んでおくこと、そのポケットの中身を常に把握しておくことで弾くものだと思っています。
―慕われる選手、愛されるJリーグというポジションに―
―Jリーグが地域密着からリーダーに成長するとすれば、そのカギを握るのは選手たちですね。例えるならば、史上最強の商品ともいえる選手たちをどう育てていくのでしょう。サインをしない、写真撮影も断る、といった選手も増えています。むしろプロ野球のほうが、努力しているように見えます。
大東 選手は、とにかくみなさんに慕われる存在、クラブは地域で愛される存在であって欲しいと願っています。選手教育も、経営方針同様、クラブによって大きな差がある部分のひとつです。選手たちにはサッカーに集中して欲しいから、と、要望でも注意でも、遠慮してなかなかできない、としたクラブもありました。確かに、選手はサッカーをして、勝って結果を出して評価されるものです。しかし、それだけが仕事ではありません。
―統一契約書を読んでいる選手は少ないでしょうし、自分のクラブの経営状態を知っている選手はどの位いるでしょう。
大東 重要な点です。選手は、とにかく勝てばいい、タイトルを取ればいい、これがプロ選手だ、と思いがちですし、クラブもそこで甘えを許してしまう面もある。しかしプロとして、背後に、どれだけ多くの応援があり、地域があって、スポンサーの支援で成り立ち、それに恩返しをしなくてはいけないか、これは徹底して伝えていかなくてはならない。社長時代、シーズン始め、選手全員に対して、もちろん目標とする成績やアプローチ方法のほか、スポンサーの状況、予算、経営状態、これらを全て伝えていました。選手の自覚は促せたでしょう。
―ピッチの中ではいかがですか。
大東 ラグビーだから、サッカーだから、と思ったことは一切ありませんが、唯一、審判への判定に対する態度は両競技で大きな違いがあると思いますね。ラグビーでは、審判は絶対です。判定に不服を申し立て、囲むなどする行為はラグビーではあり得ませんからね。それと、どんなに激しい試合でも、終了すれば必ず互いを称えるノーサイド精神です。
―民主党の代表戦のために、今年は流行語になりそうな言葉ですね。
大東 サッカーでは「リスペクト」という表現で啓もうがされていますが、ノーサイドでもリスペクトでも、選手同士がお互いを大事に思い、プレーする姿を見せて欲しい。
―選手のプレー向上には、日程なども大きく影響してきますね。
大東 今年のような猛暑の中ではさらに重要です。日程はご存知のように、実に難しい問題で、代表戦、ACLと年々さらに難しくなっています。選手のコンディション、日程、興行、この3点での公平性をベースにして日程問題に取り組みたい。責任が重いことは分かっていますが、それでも今はとても楽しみですし、決して悲観はしていません。Jリーグというブランド力を、これまで以上にさらに強く、皆さんに慕われ、愛されるものにできるようにしていきます。
1948年10月22日生まれ。兵庫県神戸市出身。
学生時代は一貫してラグビー選手として活躍。大学卒業後はラグビー部を持たない住友金属に勤務しながらも、1972年には日本代表に選出される。テストマッチに計6試合出場した記録を持つ(キャップ6)。1976年度には、1年間母校の早稲田大学ラグビー部監督を務めた。
2005年にJリーグ鹿島アントラーズの専務取締役に就任。翌2006年に鹿島アントラーズ代表取締役社長に就任した。2010年7月より、退任する鬼武健二の後任として、Jリーグチェアマンに選任され、日本サッカー協会副会長にも就任した。