大久保嘉人インタビュー(2)「GOOOOOOOAL!!~FWという生き方~」
1勝9敗、それでも走る
2003年、C大阪に所属していた二十歳のやんちゃ坊主がジーコ監督によって代表に初選出されたとき、インタビューをしている。「テープ起こし」と呼ばれる記録ノートを7年ぶりに読み返していたら、吹き出してしまった。
―代表に選ばれましたが、聞いたときにはどう思いましたか?
大久保 どう?・・・・
―まさか自分が、とか、驚いたとか。
大久保 そうっすね、驚きました。
―ドイツW杯を狙う代表ですが、ご自身の中で、W杯と強く思われたことはありますか?
大久保 なかったっすね。
―今は?
大久保 そんなにないっすね。
―話すのはあまり好きじゃない?
大久保 そうっすね、特にこういう長いインタビューとか。
―・・・・
記者泣かせというか、何というか。こんな「誘導尋問的」インタビューが45分も続いているのだ。今なら笑えるが、当時テープを起こしてくれた編集者は、さぞ困惑したであろう。当たり前の話だが、7年後の今回、あるいはW杯初出場のチャンスが巡ってきた今、レコーダーにはとてもうれしいことに、豊富なボキャブラリーにユーモアを交え、周囲への観察力や、時に配慮を欠かさずに話す大久保嘉人の言葉が吹き込まれている。一言、一言を瑞々しい感触に変えたのは、ただ年月の重なりだけではなかったと思う。
マジョルカ(スペイン、05年から06年)、フォルクスブルグ(ドイツ、09年1月から半年)と経験した2度の移籍は、決して長くはなかったが彼の「宝物」だろう。
最初の移籍先、マジョルカでは、日本人の存在すら知られていなかった。言葉が分からない。だからパスも来ない。「よそ者」を象徴するように、自分の頭上を、足元を、パスが素通りする。批判、差別、何もかもがうまくいかず、ストレスに押しつぶされそうになったが、大久保は通訳にも、国際電話にもメールに頼らず自宅の近所にあったバールに出かけ、そこで、男たちの会話に飛び込んだ。
中でもチリから単身赴任で出稼ぎに来ていたバーテンダー、エルムは境遇が似た分だけ親身だった。毎晩、毎晩、スペイン語を教わり、今となっては本当に「通じて」いたのかは笑い話だが、深夜まで会話を続けることができた。だからデビュー戦ゴールは、コミュニケーションの突破口としての一歩だった。日本人を見下していた街の人々は、手のひらを返すよりも分かりやすく一変する。挨拶も返してくれなかった人たちが、突如、ご馳走すると言い出し、半ば無視していたチームメイトからは毎晩誘われるようになる。
サッカーは言語に代わるものだよ、とよく言われていたし、もちろん大久保もそう思っていた。しかし、厳密にはサッカーが言語なのではなく、FWにとっては「ゴール」だけが、共通言語なのだと思い知らされる。日本では味わうことのなかった孤独感、ゴールがなければ、「透明人間」の扱いのまま終ってしまう焦燥感。そういった困難と向き合った日々には、「そうっすね」といった受身で解決するものなど何一つなかったのだろう。
中田英寿がイタリア語で、小野伸二が難しいと言われるオランダ語で会見に応じるような流暢な語学力を披露する場がなかっただけで、大久保も短い期間で日常会話なら十分といえるレベルでスペイン語を覚え、今でも当時の仲間とメールのやり取りをしているのだという。家に帰ればリーガ、バルサTVを何時間でも見ている。
パスが来なかったとき、それでも走ることを自分に課した。9回ウラを抜けて走っても、一度もパスは来ない。しかし一本くればそれでいいじゃないか、と忍耐を言い聞かせる。1回のための9回を無駄とは思わず走り続ける。見えていないのかもしれないし、出し手の意図かもしれない。切なくなることもある。しかし、同じ動きを繰り返す。
W杯で、自分がゴールを決めるシーンがふと、頭をよぎると大久保は言う。
「これが自分にとって最後のチャンス。何が何でも出たい」
あの時届かなかった場所へ、9敗覚悟で走り続けた4年間。